朝日新聞「ニッポン前へ委員会」提言論文、佳作に選んでいただきました

 昨日、キプロスから帰ってきました。今日の朝日新聞に掲載されていますが、5月に「ニッポン前へ委員会」の東日本大震災後の日本のあり方に関する提言論文に応募したのですが、佳作に選んでいただくことができました。ホームページを活用して津波被災地の復興プランを募集し、被災地の不動産を不動産証券化によって小額に分割して個人や民間の運用資金を集めることによって国の使うお金を最小限にして復興に必要なお金を集める、というこのブログでも議論していただいた内容をまとめたものです。1700以上の応募があったようなので、その中から選ばれたこと自体はうれしく思いますが、被災地の人のことを考えると、選考に2カ月は少し時間のかけ過ぎだと感じました。また、せっかくこのように沢山の人のアイディアを集めたのだから、新聞社としては、ただ賞を選ぶだけでなく、その中から使えるアイディアを集約して広くアナウンスし、本当に復興のために役立てるまでアフターケアをしてほしいものだと思います。私としては、今回ある程度の評価をしていただいたことでまた新たな広がりができてくるかもしれないので、なんとか復興プランを実現させるための方向に進んでいきたいと考えています。

 7月9日の私の”放射能汚染による将来の死者が増えることは確かだろう”という記述に対し、magiさんより、”現在の知見では誤りで「ガンのリスクの可能性が非常に低い」が正しいです。「確かだろう」ではなく、「可能性はあるが非常に小さい。」です。”というコメントをいただきました。これが確かな情報ならすばらしいことで、今、放射能の問題で大騒ぎし、社会全体のストレスが高くなっていることがバカバカしいことになります。特に、いわゆるホットスポットで生活をしていて精神的に追い詰められている人達に、そんなに心配しなくても大丈夫という安心感を与えられることができると思います。是非、”ガンのリスクが非常に低い”という証拠を示すデータが載っている文献なり、ホームページなりを教えていただけないでしょうか?週刊誌などの情報も過剰に反応しているように見えるものが多く、科学的にわかっていること、わかっていないことの線引きができていないことが混乱の原因のように思います。
 牛肉から放射性セシウムが検出されたことが大きな話題になっていますが、このままだと、以前の狂牛病口蹄疫の時のように、容疑のかかった家畜が全部処分されてしまうような事態になる可能性が高いと思います。本来、きっちり全頭チェックをしてから出荷していれば、放射性物質を含んだものがスーパーマーケットに並ぶことはなかったはずで、出荷体制の甘さからこのようなことになったわけですが、非常に残念です。全国的に広がっているようなのでもう入口の段階で止めるのは困難なので、「うちのスーパーで売っているものは全商品放射線カウンターで安全性をチェックしています」ということを売りにする店舗が出てくるのも時間の問題だと思います。
 放射線の問題は、特に一般の人にとっては、得たいがしれないために怖さが先立っていると思います。放射性物質に発がん性があるのは確かですが、その発がん性がどの程度なのかを他の発がん性の物質と横並びに比較することはできないものでしょうか?例えば、市場に出回った牛肉のステーキを1枚食べることは、たばこだとどれくらいに相当するのか、焦げた魚を食べた場合と比べるとどうなのか、日光浴で皮膚がんになる可能性と比べてどうなのか、など身近なものの発がん性と比べるような事例があると、それほど過敏になる必要がないレベルなのか、気を付けた方がいいのか、イメージしやすくなると思います。
 しかし、その場合でも気をつけないといけないのは、放射線物質の分布は桁違いに大きなものが混じる可能性がある可能性です。今後、魚も問題になってくると思いますが、小さな魚から大きな魚に放射性物質が移っていく段階で凝集過程が起こるので、運の悪い魚には桁違いの大きな値を持つ放射性物質が含まれる可能性があります。やはり出荷の時点で、危険なレベルに該当するものがないということをひとつひとつチェックして安全性を確認するという体制をとらないと、魚は全部危ない、というような風評になり、つけが大きくなってかえってくる可能性があると思います。

キプロスでの停電

 シグマファイという統計物理学の国際会議に参加するため、土曜に日本を出て、ドバイ経由で地中海の小国キプロスに来ている。会議の初日に当たる月曜の朝、6時間の時差があることもあり早く目が覚めたのでホテルの部屋でパソコンを使って仕事をしていたら、6時過ぎに突然停電になった。何年か前、トルコで研究会があったときも不定期に停電があったので、少し待っていれば電気が来るものとたかをくくっていた。キプロスは人口が90万人弱、国土も四国の4分の1程度の小さな国であるから、トルコ以上に電力の供給が安定していないのだろうと思ったわけである。
 しかし、いくら待っても電気が来ない。電気のない中で限定されたメニューの朝食を済ませ、そうこうしている間に会議が始まる時間になった。会議の初めに現地の人から、停電の理由の説明があった。何らかの理由で軍に保管していた弾薬に火がつき、かなり大規模な爆発が起こったという。10名上の若い兵士が亡くなったのであるが、爆発は隣の発電所にまでおよび、発電機が壊れ、電気の供給ができなくなった。その発電所は国に3つある発電所のひとつで、国の電力の約半分を荷なっているということなので、国中が停電になり、しかも修復には何週間かかかる見込みらしい。
 プロジェクターもマイクも使えない中で研究発表をしなければならない人は悲惨だった。せっかく時間をかけて用意していたパワーポイントやムービーを電池が付いているノートパソコンの画面で表示している人もいたが、一番前の数名しか見えないので、結局、急きょ用意した大きな紙にマジックペンで式や図を手書きで見せ、大声で説明するしかなかった。
 冷房がないので部屋の温度はしだいに高くなり、冷たい水も飲めず、さらには、貯まっていた水がなくなりトイレの水も流せなくなった。ホテルのWiFiの電波が出なくなったので、インターネットも使えず、ノートパソコンの電源もしだいに減っていくという状況で、国際会議の継続自体が危ぶまれたが、幸い、大型トラックで運んできたコンテナ型の臨時の発電装置がホテルの駐車場に設置され、自家発電を始めたので夕方には電気が使えるようになり、いつもの国際会議に戻った。
 電気がない中でありがたかったのは、携帯電話は使えたことだ。私自身は使う用事がなかったが、電源工事の人達はさかんに電話でコミュニケーションをとっていたし、海外への電話もそのままできていたようだ。東日本大震災の場合もそうだったが、電話を電力とは別系統にしてあることが災害時には非常に重要であることを改めて感じた。
 こちらに来るまであまり知識がなかったのだが、キプロスは国の北側の3分の1程度をトルコに占領されたままの状態になっており、度重なる国連の説得にも応じず、国が分断された形が持続している。元々ギリシャ系の住民とトルコ系の住民がいたが、ギリシャ系の住民が勢力を強くして国全体をギリシャに統合するような動きに出た時に、トルコ系の住民を守るという名目でトルコ軍が進駐し、北側に住んでいたギリシャ系の住民は追い出されたという。
 トルコはユーロ圏に入りたがっているが、なかなか認められないが、キプロスは2004年からユーロを使うようになった。聞く所によると、ヨーロッパの国々は、トルコに対し、キプロスからの撤退をユーロに加入するための条件にしているため、トルコはユーロに入れないが、南部のキプロスはユーロになったおかげでヨーロッパからの観光客も増え、経済は上向いているようだ。それに対し、北部キプロスはかなり経済的には苦しい状況らしい。研究会終了後、町の真ん中に国境がある首都を見学に行く予定なので、どんな様子か直に見ることができると期待している。

命を優先するという論理ならむしろ原発を容認すべき?

 原発のストレステスト導入に関する混乱がひどくなっている。TVのニュースを見ていて、論点が非常にぶれていることを感じた。それは、「命を最優先にしてほしいから、ストレステストなどの原発の安全性をしっかりチェックし終わるまでは原発を動かしてほしくない」という市民の代表の主張だ。福島原発の事例からも明らかになったように、原発の事故は、すぐに命を奪うような被害はほとんど起こさない。むしろ、3月下旬の計画停電中でも発生したように信号が使えないために発生する交通事故や、昨年の3倍もの勢いで発生している熱中症の方が、より確実に命を奪う可能性が高い。放射線物質の影響で、10年、20年後にガンにかかる人の数は確実に増えるだろうが、ガンは早期検診を行っていれば、治療できる可能性も高くなっていることを考慮すれば、本当に命を最優先するという方針にするなら、むしろ、原発を動かして電力を確保した方が正解かもしれないのだ。
 事態を冷静に考えれば、今、原子炉を止めるべき最大の理由は、仮に新たな原発事故をこれから起こした場合に想定される日本に対する世界からの評判の下落、経済全般への影響、それと、原発が怖いという心理的な効果があまりにも大きいからであり、直接的な命の問題ではない。命という観点から言えば、日本では、年3万人近い数字を継続している自殺が最も大きな社会問題として認識されるべきだ。死因の全体を見渡せば、老化に伴うガンなどに象徴される病気が大半だが、体が比較的元気な20代に限定すると死因の最大の理由は自殺である。自殺の原因を乱暴に決めつけることはできないが、国際比較をすると、日本は自殺率が世界6位で、上位の国はベラルーシリトアニアなど、政情不安定の国が多く、自殺率で言えば、アメリカの2倍以上、財政破綻しているギリシャの7倍にもなっている。私は、日本人の美徳とも受け取られることが多いみんなでがまんする精神が、自殺率が多いひとつの原因ではないかと考えている。がまんできる限度の人はいいが、がまんの限界を越えた人が声を上げることもなく、自殺してしまっているのではないか?
 例えば、今の節電ブームも、発電に余力のある時でも電力を使うことを悪のようにみなす風潮が広がってきて、特に、生真面目な年配の方は、エアコンをつけることが悪いことのように思ってしまい、がまんをして熱中症になってしまい、命の危険にさらされる。
 自分の子供は小学生のとき、学校の環境の授業の効果があり過ぎたようで、暑い日にエアコンをつけようとしたら、「パパは地球が壊れてもいいの!」と制止されてしまったことがあった。幸い、今はものがわかるようになって、合理的な判断ができるようになったが、今の日本は、この小学生の過剰反応を笑うことができないような不合理に満ちている。
 発電力に余裕がある時間帯はそもそも基本的に節電の必要はないはずである。無駄な電力を使わないというのは当然として、無理をしてでも節電をする必要があるのは、当面、暑い平日の午後だけである。国民全体にがまんをさせるのではなく、例えば、ピーク時の電気料金を高くして、夜間料金を下げるなど、はっきりした方向性を示せば、例えば、夜のうちに氷を作っておいて、暑い昼は氷とうちわでしのぐ、ということだってできる。どうしても必要な人は高いお金を払ってでも電気を使えばよい。なぜ、目的を明確にして、それを実施するためのプランを出して、後は、個人の判断に任せるということができず、国民みんなでがまんしようという方向に進んでしまうのだろう?
 本当の目的を明確にしないで、全員に同じことを暗黙のうちに強制する、という今の風潮は、社会の構造として、戦争に向かって突き進んでいた昭和の初期のころと同じなのではないかとすら思えてくる。放射能の汚染によって将来ガンで死ぬ人は増えるのは確かだろうが、電力の節約の強制やそれに付随する社会の中の目に見えぬ束縛に負けて自殺してしまう人の数とどちらが多いか、きちんと調査をすべきだ。安易にみんなでがまんする方向に進むのは非常に危険な方向である。

原発のストレステスト:テロへの対策も項目に入れるべし

 今日の新聞で、原発のストレステストを改めて行うことになったという報道があった。これは是非やってほしいし、先月に安全宣言をしたときには、やってなかったということは、何をもって安全と宣言したのか、旧体質がそのまま残っているようで、怖さを感じる。
 ストレステストは、地震津波電源喪失などを想定するようであるが、まだ、詳細は決まっていないという。また、欧米では、ストレステストの結果が悪い原発は停止あるいは廃炉にするルールのようだが、日本では、そこの部分もまだはっきりしていないようだ。
 ストレステストで考慮してほしいのが、テロ行為に対する安全性だ。911テロ以来、自分の命を惜しまずに強力な破壊行為に及ぶ可能性は常にあると思っておかなければならない。日本に恨みを直接持っている人がいないとしても、日本でテロが成功すれば、その影響は欧米にもそのままつながるので、むしろ、ガードが甘くて狙いやすいところを狙ってくる可能性は十分に考えられる。
 一番考えられるのは、機関銃などで武装し、強力な爆薬も持った10名程度の人間が日本の原発を襲ってきたときに、どれくらい防御できるか、である。私は原発の見学をしたことがないので、どのような安全対策をとっているのかわからないが、少なくとも、銃で応戦するには、守る側にも銃を持った人が必要であるが、今の原発に、そのような警備体制があるとはとても思えない。おそらくは、テロリストはやすやすと原発の中に入ることができるだろう。問題は、そこから、炉心溶融放射線を市中にまき散らすことがどれくらいできるか、かもしれない。ある程度以上強力な爆薬を炉心やクールダウンしている核燃料のプールに設置すれば、簡単に目的を達することができるのではないか、としろうと考えでは思えるが、専門家はその点、どのように答えるだろう?
 TVや新聞を見ていても、電源喪失まではよく議論されているが、そういう過去に事例のあることに対して十分な対策をとっておくのは、当たり前のことで、大切なのは、これまでに起こったことがないような事態をどれくらい沢山想像できるか、そして、どこまでを防ぐ準備をしておくか、である。とりあえず、今の世界情勢からみれば、いつあってもおかしくないテロリストの原発への攻撃に対して、どれくらいのことが考慮されているのか、今後議論されるストレステストに注目である。
 もし、このストレステストがテロリスト対策を全く無視したようなものであるなら、それは、逆に、テロリストをそそのかすような効果すら持つかもしれない。テロリストが原発は守りが堅いので、狙うのを止めよう、と思わせるくらいのレベルのガードがなければ意味がない。現状は実際のところどうなのだろう?もしかして、飛行機をハイジャックsるよりも原発ジャックの方が簡単などということはないと思うのだが・・・?

日本人の美徳と放射能汚染の賠償:下限と上限をアンケート調査してはどうだろう?

 今回の震災に関連して、日本人がパニックを起こさずに、じっと行列に並んで我慢強いことが海外から美徳として高く評価されたという報道があった。しかし、6月30日のブログにも書いたように、我慢比べになってしまっては、最も弱い人に大きなしわ寄せがきて我慢の限界を越えてしまう可能性が高く、また、権力者は何もしなくても非難もされないので、そのままでいいのかと勘違いしてしまう可能性がある。時と場合によっては、特に、今の停滞状況を打破するためには、民衆は非常に困っており、また、怒っているのだ、ということをはっきりと示すことも重要だと思う。
 だいぶ昔の話になって恐縮だが、大学院を出て、海外特別研究員として米国エール大学での生活を始めたとき、せっかくの機会なので、大学が主催する英会話教室に通ったことがある。教室には、日本人、中国人、ヨーロッパ人、アラブ人、など様々な国から年齢も様々な人達が集まっていた。元気のいい若い女の先生がまず自己紹介をして、学生ひとりひとりにどこの国から来たのかなどを一通り聞いた後で、わからないことなどがあったら直ぐに手を挙げて質問するように、と生徒全体に伝えた。その後で、思い出したように、「そういえば、アジアの人の中には恥ずかしがり屋(shy)の人がいるって聞いたけど、もしこの中で、恥ずかしがり屋の人がいたら手を挙げて」と言って皆を見渡した。自分は、どちらかといえば恥ずかしがり屋の部類かと自分では思っているが、堂々と手を挙げて恥ずかしがり屋だと名乗り出るほどの典型的な恥ずかしがり屋ではないので、様子を見ていたら、案の定、誰も手を挙げなかった。それを見て、先生は、「OK、この教室には恥ずかしがり屋はいないわね、それじゃ、授業を始めましょう。」と、授業が始まってしまった。そもそもこういう場面で手を挙げられる人は、恥ずかしがり屋ではない、という根本的なことがわかっていないことに大きな文化の違いを感じ、アメリカでは、恥ずかしがり屋というのは、一種の精神的な障害を持った人のようにも思われているのかもしれない、と思った。
 教室の中から恥ずかしがり屋を見つけたいなら、とりあえずは、恥ずかしがり屋でない人に手を挙げさせるべきだっただろう。しかし、もしそのとき、多数の人が手を挙げると、本当の恥ずかしがり屋は目立ちたくないので、周囲の様子を伺いながら手を挙げるかもしれない。紙を配布して、アンケートのような形で問えば、ある程度正直に答えるかもしれないが、それでも記名式だと、後で何か調査をされたりするといやだと思って、本当のことをかかないかもしれない。おそらく、匿名式のアンケートならば、自分は恥ずかしがり屋なので、そういう人に配慮をした授業をしてもらえるとうれしい、くらいのことを書いてくれるかもしれない。1対1の面談だったら、どうだろう?自分が恥ずかしがり屋だと名乗っていろいろと詮索をされるのはいやなので、特に問題はありません、と言ってしまうのではないだろうか?
 今回の放射能被害の見積もりには、この恥ずかしがり屋探しに共通するような難しさがあるように思う。例えば、放射能の被害額を算出するとき、自分よりも明らかにひどい被害にあっている人がいるのを知っていて、その人を差し置いて、我先に被害額を提出することには抵抗感があるのではないだろうか?また、被害推定額が大きいと強欲だという風評が立たないか、ということも心配になるのではないだろうか?いわゆるホットスポットに住んでいる人で避難対象にはなっていないが、放射線の被害を受けている人に対する被害の評価も非常に難しい。ガンになるかならないかは、10年以上たたないとわからないし、それまでの10年間、毎日不安な気持ちが続くことに対する精神的な保障をどう評価するか、これも極めて難しい問題だ。がまんしようと思えばがまんもできてしまうだけに、声を上げるには勇気や背中を押してあげるような心づかいが必要だろう。
 具体的に考えれば、放射線の被害額を見積もることは極めて難しい。しかし、明らかなのは被害額を見積もれない状態が続けば、被害額は最小にしか評価されず、風評被害で潰れる企業や農家や水産業者は見捨てられ、東電や政府は、避難生活をしている人達に簡単に出せる最小限の補償をするだけで済ませてしまう可能性が高い。やはり、なんとかして、被害者に速く十分な補償金額が回るようにする必要がある。
 基本的な考え方は、放射能の汚染がなかったときに得られたであろう金額との差額を保障する、放射能問題に起因する肉体的・精神的な障害に対する補償をするということだろう。しかし、妥当な線をいきなり推定することは被害者当人にとっても非常に難しい。そこで、提案だが、記名式のアンケートで、最低水準と最高水準を調査する、というのはどうだろう?生活を維持するのに、最低限度これだけは必要という金額は比較的主張しやすいし、もし、これ以上もらったらちょっともらい過ぎかな、という金額も逆に提示しやすいのではないだろうか?例えば、下限100万円、上限1000万円、というようなざっくりした数字でもいいと思う。上限が見えることで、とりあえず被害者の不満を押さえるために必要な総額を見積もることができ、どれくらいのお金が最終的に必要になるのかを推定するための重要な手掛かりになる。そして、それは、国民がどれくらい怒っているのだということを数値的に評価することにもなるだろう。記名式のアンケートにすれば、あまりに非常識な上限を設定する人はいなくなるだろうし、分布などを見ることで、どのような意見分布になっているかを把握できるはずである。そのような調査を踏まえた上で、本当に支給できる金額を推定する公式を作っていかなければならないだろう。

大槌町での葬儀

 週末の土曜、岩手県大槌町で義理のいとこの葬儀があった。3月11日の津波で行方不明になり、未だに見つかっていないが、100日を過ぎ、区切りを付ける必要もあり、葬儀を執り行うこととなったのである。
 自家用車に関東にいる親戚を乗せて、金曜に東京を出て、約10時間かけて遠野で宿泊、翌朝、山越えをして、大槌町に着いた。10数年前に、当人の結婚式のときに来たことがあったが、そのときの町は全くなくなっていた。何軒か残るコンクリート建ての建物以外は、ほとんど土台以外はなくなっており、運転席の目線からでも町の先の海の方までが見渡せた。いろいろな商店がにぎやかに立ち並んでいた自分の昔の記憶は、更新されていないカーナビの地図とは一致していたが、現実に目に入るのは、重機によって積み上げられたがれきと、そして、今もなお手つかずの状態で原型を留めない自動車があちこちにころがっている惨状だった。あの車の一台一台の中に人が乗っていたのかもしれない、と思うと、行方不明になったいとこの顔も浮かび、感情を抑えるのも大変だった。
 主要な道路は通れるようになっていたが、舗装がなくなっている部分も多く、ほこりがひどい中をカーナビの指示にしたがって進んで行った。着いたお寺には本堂はなく、大きめのプレハブの建物が建っていた。津波のときにひどい火災があったようで、周囲の森まで焦げていた。遺体もなく、家も職場も流されて思いでの品も何も残っていない中で、遺影の笑顔だけが妙に大きな存在感があった。その写真も親戚からコピーを送ってもらってやっと入手したという。突然、家と父を失った中学生と小学生の娘さんらの心境、その子らをひとりで育てていかなければならないという気丈な気持ちを支えにしているであろう奥様の姿は、場の一同に特別の一体感を生み出していた。浄土宗の法要が形通り進み、津波の被害のなかったお墓に形ばかりの納骨をして、葬儀は終了した。
 葬儀後、高台の上にあり、津波の被害をまぬかれた隣町の吉里吉里町の親戚の家に一同が集まり、仕出し弁当をいただきながら談話が進んだ。地震自体のゆれは大きかったが直接の被害はそれほどなかったこと、誰もが津波の襲来を予想していたが、気象庁の一報で予想される津波の高さは3mということで妙な安心感を持ってしまったこと、一度家に帰ってきて子供を高台の方に導いたいとこは、その後、職場の町役場に向かい、それが最後になってしまったこと、など。親戚の家は、南側が斜面になっており、ひとつ南隣りの家まではあとかたもなくなってしまったという。当日は、流される屋根の上で助けを求める人などが多数いたそうで、思い出すだけでもつらそうだった。
 亡くなったいとこは、いつも津波のことを気にかけていた。自宅は、一階部分を鉄骨の柱だけの駐車場にして、2階3階部分に居住するようにしていた。3m程度の津波なら何の被害もなかったはずだが、今回の津波は居住部分を全て押し流し、1階部分の鉄骨だけがそのまま残っていた。夜寝る時も、子供たちにいつでも避難できるようにと、枕元に着替えを置いておくように習慣づけていたそうだ。その彼が、なぜ津波が来ることがわかっていながら町の中心に戻ってしまったのか、その最大の原因は、気象庁津波予報にあったという。予想される津波が3mという報道の後、電気が途絶え、その情報を信じていた町役場の人達は、被害は限定的だろうから、役場に集まって対策を練ろうということになっていたらしい。もしも、気象庁の最初の一報が、津波は15m以上と報道してれば、誰ひとり町の中に戻る選択はしていなかったに違いない。
 気象庁地震計の故障などもあり、すぐには正確な予測ができなかったというような言いわけをしているが、正確な数値が出せないなら、せめて、予測不能、という情報をそのまま流してほしかった。気象庁が予測不能と言えば、それは過去に例のないレベルであることを暗に示しているのであるから、誰もが最大限の警戒をしたはずである。もし、予測不能という一報を出していれば、それだけでどれだけの人の命を救うことができたかと思うと、非常に残念である。テレビの報道でも気象庁の第一報の問題点を指摘する番組があったが、今後の対策としては、科学的な予測の報道に関しては、はっきりしないときには予測不能というような形で正直にそのまま報道するようにすべきである。
 大槌町にしても吉里吉里町にしても、まだがれきを重機でかたずけるのが精いっぱいで、町の復興プランを語る余裕はないようだ。土地の所有権をどうするのか、山を削って新たな住居用地を作るのか、それとも危険を覚悟でまた、海沿いの平地に住むことにするのか、基本的な方針が何も見えていない。被害のひどい地域では、ボランティアにできることもないので、ただ、重機とトラックが黙々とがれきを片付ける作業を進めているだけだった。一刻も早く、地元の人が明るい未来を夢見られるようなプラン作りの段階に進んで欲しいものだ。

東電問題:今、放射線被害者は積極的に賠償請求をすべきではないか

 1昨日の東電の株主総会で、出席していた株主のかなり多数が原発停止の提案に賛成していたようだが、投票としては、賛成はたった8%だったという。株主総会では、株数に比例した投票になるので、大株主らが反対していれば、どんなに小株主の頭数が多くても、投票では負けてしまう。現時点で90%以上の株を持つ大株主らが原発賛成だとすれば、どれだけ多くの小株主がよってたかってもルール上相手にならない。まさに、お金が物を言う資本主義の力の差をしみじみと感じさせる結果だった。
 いくら安くなったとはいっても、東電の株の過半数を反原発派の人達が買い占めることは金額的に困難なだけでなく、既得権益のある大株主はそもそも株を売らないので、株の取得によって経営方針に口を挟むことは事実上不可能である。そのような状態になった会社を世論に従うようにすることは非常に難しい。いったん会社がつぶれるなり、政治的な介入でもないことには、現在の大株主集団の方針を変えることはできない。株式会社という制度そのものが本当にそれでいいのか、という根本的な問題も浮かびあがってくる。
 ともかく、現状のように東電が放射線の賠償責任を持つという判断の元では、今後、賠償額はどんどん増えるだろうから、東電はつぶせない企業だとしても、利益を上げられるようになるのは少なくとも10年くらいは先になるだろう。じりじりと株価が下がり、企業の収支が悪くなり、・・・という状況では、避難している人達や周辺の農業・漁業への賠償も十分になるとは思えないし、ましてや、風評被害への賠償までに予算を組むとは考えにくい。時間がかかればかかるほど弱者である上記の人々の苦労が長引くわけであるから、一刻も速く自体が動くようにするためには、どうしたらよいだろうか?
 人間の頭数に応じた多数決で決まるのは政治の基本ルールであるから、多数の民意を敏感に感じて動いてくれる政治家がそろっていれば、民意に沿った方向に政治が進んでくれるのだろうが、今の状況はあまり期待できない。じっとがまんは日本人の美徳かもしれないが、その結果、困っている人達がより困る状況を持続させてしまっては、美徳ではなく、たんなる無関心になってしまうだろう。
 小株主による東電首脳部への反逆があっさりと拒絶されてしまったからには、今度は、株主に限らず、放射線の被害を受けた膨大な数の人達が一斉に東電に賠償請求をするようにすればよいのではないだろうか?放射線の被害者らがそれぞれの立場から、賠償額を見積もって提示して、東電や裁判所に訴えるのだ。例えば、旅館がキャンセルで大きな損を出したケースであっても、その根本的な原因が放射線に由来していると合理的に考えられるならば、それも冷静に損失額を見積もって、遠慮せずに東電に賠償請求するのである。一斉にこのような請求が出てくれば、賠償金額が総額どれくらいになるのか、明確になってくる。この金額が東電だけでは到底払えない額に積み上がれば、東電も政府も何らかの新たな対応に進まざるを得なくなるのではないだろうか?がまん競争になると、最も弱い人達に歪が蓄積し、限度を越えてしまう可能性が高い。我慢できるレベルの人も我慢しないで、これだけの被害を受けたので賠償してほしい、と主張することによって、結果的に、弱者を救うことにつながるはずである。