豊田利幸先生の思い出と科学者の社会的責任

 名古屋大学に入学した最初の2年間、私の指導教官は、2009年5月に89歳で亡くなられた素粒子原子核の研究をしていた物理学者の豊田利幸先生だった。科学者としてのモラルを先生の生き方から学び、自分の研究の方向性も先生の言葉で決まったとも言える。
 先生は、指導生を集めたお茶会を折々開催し、学生に様々な話を聞かせてくれた。「ちょうど昨日もこういう談話会があって、湯川さん、朝永さん、らと楽しいおしゃべりをしました、・・・」というような調子だった。ノーベル賞受賞者も高校を出たばかりの学生も同じように相手にしてくれているんだ、という高揚感を覚えている。
 先生が大学院生のときは戦争の真っ最中だった。ある日、東条英機首相から彼を含めた何名かが直接呼び出され、日本や諸外国が原子爆弾を作れるかどうか試算をするように命じられたという。計算の結果、ウランを分離濃縮するために必要な電磁石を作るためのコイルの素材不足がボトルネックであることがわかったという。コイルを巻くために膨大な量の銅線が必要なのだが、どこの国も戦争のために使いきっており、結論としては、原子爆弾は制作不可能との報告をしたという。この計算自体は正しかったのだが、アメリカは財務省の金庫の中にある銀を使って世界一高価なコイルを作り、原子爆弾を実現してしまったのだ。
 戦後、豊田先生は、自分が少しでも原子爆弾の作成に関わる研究をした責任感から、パグウォッシュ会議に精力をつぎこんだ。パグウォッシュ会議は、最近はあまりマスコミに取り上げられないが、1995年にはノーベル平和賞を受賞し、核軍縮に一定の成果を与えたことが評価されている科学者の核軍縮運動である。彼は、物理学の授業の中でも折々、核兵器原発の問題を話していた。津波のことは話していなかったが、テロリストによる悪用は常に危惧していた。特に印象に残っているのは、原子炉の副産物であるプルトニウムに関する話である。プルトニウムは元々天然にはほとんど存在しない元素で、缶詰ひとつ分を粉末にしてばらまくだけで数百万人を生命の危機に陥れることができるような究極的なテロリストの兵器になるので、厳格に管理しなければならない、しかし、今の原発関係施設は、テロリストを想定していない・・・。このようなテロは、永遠に起こらないことを願うしかない。
 私は、自分がもうじき学部に進む2年生の時、豊田先生に、「もし、今、先生が学生だったらどんな分野に進みますか?」と尋ねたことがある。しばらく考えたあと、彼は答えた。「ひとつの分野を選ぶのは難しいが、絶対に選ばない分野はある。それは、素粒子理論だ。なぜなら、まず第一に、この分野は、今、絶頂期で膨大な量の論文が発表されているので、研究の最先端に到達するまでに山ほどの論文を勉強しなければならない。次に、世界中の秀才が競い合っている中で勝ち残れるほど自分は自分の頭がいいとは思っていない、第三には、素粒子の実験の規模が年々大きくなっており限界が見えてきている。実験による検証ができない分野はいずれ行き詰る。・・・」明快な答えだった。私は、少し未練があったが、当時、世界をリードしていた素粒子の名古屋グループに進むことはきっぱりとあきらめ、新しい分野だった非線形物理学の研究室に進むことにした。
 ソリトン理論で有名な谷内俊弥先生の非線形物理学研究室では、核融合を目標にしたプラズマを題材に乱流現象の理論的な解明に取り組んでいた。私は、その中から新しい概念だったフラクタルと出会い、さらに、その後、フラクタルの研究を通して、フラクタル現象の塊のような現象として地震現象や経済現象という新たな研究のフロンティアに出会っていくことになった。
 豊田先生の言葉は今でも私の人生に大きな影響を与えている。