ゲージ理論と外国為替市場

 絶対的な時間軸や空間軸というものは存在せず、それぞれの観測者における時間軸と空間軸は相対的に決まるものだ、という考え方の正しさを1905年にアンシュタインは相対性理論の中で明らかにした。時間の進む速さやものの大きさを測るものさしそのものが人によって異なっており、お互いに比較することでしか、時間の長さやものの大きさを議論できない、と考えたのである。ニュートン以来、運動方程式を考える時には、まず、座標軸を描いて、その中でのものの位置の変化を考えて来たのだが、そもそも、その座標軸はどうやって描くのか、自分の座標軸と他の人の座標軸は同じなのか、というところに疑問を持ったのである。
 アインシュタインの考え方は、それぞれの人は、自分で時間軸と空間軸を定義するのはいいが、それは誰にでも共通のものではなく、他の人の座標軸との相対的な関係をきちんと考えなければならない、というものだった。そして、「それぞれの人が勝手に作った座標の中での運動方程式は座標を変換しても同じ形になるはずである」という相対性原理と、観測事実に基づく真空中での光の速さはどの人から見ても同じ値になるという光速一定の原理に基づき、特殊相対性理論を作り上げた。この考え方は、さらに一般化されて、時空間の各点においてそれぞれの座標軸を用意するというゲージ理論という形に発展し、現代物理学の中の重要な理論体系になっている(ゲージgaugeとは、ものさしのことである、”ものさし理論”ではかっこ悪いのでゲージ理論とよばれている)。
 ゲージ理論は、時空の歪みや重力を記述するアインシュタインの重力方程式を導き出せるだけでなく、電磁気の基本方程式であるマックスウェルの方程式や、クォークなどの素粒子の運動を記述する量子色力学の基本方程式などもここから導き出せる。ごく当たり前の前提条件、「座標軸の選び方は違っても、誰がどこから見ても物理法則は同じ形になるはずだ」、という条件を数学的に詰めていくと、それだけから物理学の基本方程式が出てくるのであるから、まさに、理論物理学の真髄ともいうべき考え方である。
 ゲージ理論に最も近い経済現象が、外国為替市場である。金本位制が廃止され、外国為替市場が登場した時点から、絶対的な経済的基準がなくなり、全ての物の価値が市場を通して相対的に決まるようになった。例えば、ある日本の企業の株価が上がったという時には、それは、円という座標軸を基準にして測定していることになる。そのとき、円がドルに対して下落していれば、ドル建てで見ると、同じ株価が下落しているように見えることもあるし、ユーロで見ると、その株の価値は変化していない、という可能性もある。ものの価値という概念そのものが相対的であることを否応なく認識させられるわけだ。
 外国為替市場で、ある通貨ペアの市場価格が大きく変化すると、それは否応なく他の通貨市場にも影響を及ぼす。例えば、ドル円市場において、円高になったとき、それが、円が上がったのか、ドルが下がったのか、どちらの可能性もあるので、ユーロ円市場とドルユーロ市場で取引している人は、すぐに対応する必要が生じる。例えば、円だけが上がったと判断するなら、ユーロ円市場でも同じ割合で円が上昇するはずだし、ドルだけが下がったならドルユーロレートが反応するはずだ。もし、この応答が遅れると、円・ドル・ユーロを循環的に取引するいわゆる裁定取引で利益が生まれる可能性が発生することになる。裁定機会は経済学ではあってはならないものであり、金融工学も無裁定条件が本質的な役割を演じているが、データから見る限り裁定取引のチャンスは現在の市場でも明確に発生が確認できる。自動売買の割合が増加して、裁定機会の持続時間は短くなってはいるが、発生そのものはなくなってはいない。
 現実には、ドル円レートが変化したとき、どちらか一方だけの価値が変化したのではなく、両者が半々の責任を負うこともあるし、円高7割、ドル安3割という可能性もある。それぞれの解釈によって、対ユーロの価格は異なり、正解というものは存在せずコンピュータでも答えを出せないので、瞬時には答えは出てこない。ユーロ円とドルユーロ市場ではどこの値に落ち着くのか、多数決で決まる市場に委ね、しばらく市場の様子を見守る必要が生じるわけだ。その結果として、ユーロが変動すると、今度はユーロとのつながりの大きい他の通貨にも影響が及び、さらに、変動が広がる可能性が出てくる。そして、その変動が、また、ドル円市場にも跳ね返ってくる。
 全てが相対的に市場を通して価値が決まる外国為替市場では、ほんのひとつの変化が全市場へのゆらぎを引き起こし、結果として、常に全てが変動し続けることになる。物理学で考えているゲージ理論では、ものさしが時間とともにランダムに変動することまでは想定していない。外国為替市場は、ものさしが相互に連動して時間とともに自発的にランダムに近い変動をする場合、ものさしの統計性はどうなるのか、という新しい問題提起をしていることになる。