送り火問題、京都市、最悪の決断:なぜ安全な部分だけでも使おうとしないのか?

 岩手から取り寄せた薪の一部から放射性セシウムが検出されたため、京都市は一転して、岩手の薪を送り火に使うことを取りやめたという報道があった。セシウムが検出されたということで、TVのコメントなども、「しかたがない」、というような主張が多く、また、京都市への電話も「断念してくれてよかった」というような声が多く、中止を批判する声は少なかったという。しかし、私は、結論から言えばこれは最悪の決断だったと思う。
 関東に住んでいる立場から言えば、その薪を燃して飛び散るセシウムよりもはるかに多い量を既に3月の時点で浴びてしまっているので、この程度の薪を燃やすことに対して、少なくとも私はほとんど不安を感じない。それよりは、岩手の人の悔しい気持ちの方が共感できる。しかし、まだ放射線汚染の少ない関西の人にとっては微量であっても気になる気持ちも理解できる。薪に関しては、表皮の部分だけを集めて測定したサンプルからセシウムが検出され、薪の内部からは検出されなかったということだから、岩手の人の気持ちを踏まえ、京都の人の不安な気持ちも配慮すると、唯一の両者を満たす答えは、薪の表面を削り、セシウムが検出できない部分だけにしたうえで、その誰もが安全と思えるところだけでもいいので、送り火で燃やすことだったと思う。そのような努力をすれば、岩手の人も京都の人の誠意を感じることができただろうし、京都の不安な人はそれでも不安かもしれないが、徹底的に調査してセシウムが検出されない状態にしたものというお墨付きがあれば、実害がでるはずはないので、多くの人はしぶしぶでも納得できたはずだ。少なくとも私は、京都市がそれだけの努力をしてくれれば、今年の送り火は、より強く共感を持つことができる特別のものになったと思う。
 しかし、今回のように、セシウムが見つかったので、一気に全部ご破算、というのでは、結局、最初に放射能の心配をして電話で岩手の薪を燃すことを非難した人と京都市は同じレベルだったということになる。京都市は、わざわざ改めて岩手から薪を取り寄せたのだから、精一杯、少しでも使える所を使う、という志を見せてほしかった。これでは、市が率先して風評を正当化したようなもので、考えられる中で最悪のシナリオだ。
 関東と東北一帯には既に放射性物質が散布されてしまっているので、厳密に検出すれば、どこからでも多かれ少なかれ放射性セシウムなどは出てくることは当然予想される。このような形で自治体やマスコミが率先して放射性物質アレルギーを是認するようでは、今後とも風評を押さえることは無理だろう。今回の岩手の薪の使用禁止に賛成する人は、おそらく、関東や東北の物産は買おうとは思わないだろうし、旅行にも行きたくないと思っているのではないか?
 インターネットの書き込みで、京都は国際的な観光地だから少しでも放射能汚染を広げてほしくない、という内容があった。その気持ちはわからなくはないが、だからといって、使っても大丈夫な部分の薪も十把一絡げにして全部使用しないというのはあまりに人の気持ちを踏みにじる乱暴な決断だ。それに、このような発言は、暗に体内被曝してしまっている人は京都に来てほしくもない、と言いたいようにも聞こえる。例えば、駅や道路に放射線測定装置を付けておいて、一定値以上の放射線を出す人や車を京都からシャットアウトすれば満足するのだろうか?
 海外から見れば、京都を含めて日本は放射能で汚染された国だ。放射能が怖いから京都には行かない、という海外の人は今でも多いと思う。そのような風評と戦うためには、福島の原発周辺以外の地域は、生活したり観光したりする範囲では放射能の心配はない、日本の産物も安全だということを長い時間を掛けて地道に世界にアピールしなければならないだろう。日本人が現在のように放射能に過敏に反応しているニュースを海外から見れば、やっぱり日本は危ないと思うに違いない。京都市は自分で自分の首を絞めている。薪の表面から放射線が検出されて、内部からは検出されなかったなら、大騒ぎしないで、表面を削った上で改めて放射能汚染を調査しなおして、問題のなくなった形で使用することにすればそれで済んだことなのだ。
 観光地は単に歴史的に重要なものがあれば人が集まるというものではないと思う。観光はサービス業の典型であるが、サービスの基本はお客様の心を満たすことのはずだ。見るだけなら、テレビでもかなり満足できる。わざわざ現地に足を運ぶのは、そこにいる人と会話をし、暖かい心のふれあいができるからではないだろうか? 今回の件で、京都は観光の原点を自ら放棄してしまったと思う。少なくとも私は、今後当分の間、京都に行っても不快な気持を思い返すことはあっても心のやすらぎを感じることはないと思う。
 今ならまだ、16日の本番までに時間がある。岩手の薪の表面を削って誰もが安全と思える形にしたものを、少しでもいいので、送り火で燃やすために最後まで努力をしてほしい。